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2024.12.07-12.22 / ギャラリー創 /札幌

すべての物語りが刻まれた世界を、私のなかに孕んでいるとしたら。

脆さや混沌をも内包することでしか、成り立たないのかもしれない。

相反するものが吊り合う天秤のように。内外を持たない器のように。

遠く憧れ、届くことができないと思いながら見上げたあの深遠の星空は、

私が、自らの内の深淵へ降りていけば、辿り着けるのではないだろうか。

世界を孕む - Encompass the storytelling.

八年前、一頭の白鯨を描いた。 いつの頃からか、「この絵を対にしてあげなければならない」と思うようになっていました。 完成させたい、というより、在るべき姿にしてあげたい。 対にすることで、きっと閉じることができ、そうすることで、終わらせられる、と。 多分それは、この白鯨のこともだし、私自身へのことだったのだと思います。 光と影、彼岸と此岸、常世と現世。もしも仮に、この対の白鯨を“光と影”とするなら。 最初に描いた白鯨は、影の中にいるのだろうか。だとしたら、光側にいる白鯨を必要としている。 単純に光と影という言葉では表現できないけれど、最初の頃はそういうことなのだろう、と思っていた。 光側を描かなければ、と。けれど描き進めていくうちに、感じてきたことは、 光のような側に行きたかったからではなく、そうではないものたちの存在を肯定するために、 描きたかったのかもしれない、そう感じるようになった。過去の白鯨が抱えるものたちを、救ってあげたい、と。 この制作に向き合いたいと思いながらも、なかなか向き合えず、何年もの時が経ち、 それとは裏腹に身体は、筆を持つ手は、どんどん動かなくなっていってしまいました。 自分自身でまとわらせていた角や鎧のようなものは、気づけばどうしようもない重さとなっていた。 のしかかるその重さに、もう足を出すこともできない。そのところまできて、ようやく、 諦めて、手放していきました。描くために手放した、というより、手放したから描けた、のだと思います。 それを知るために、あの時、片側だけの白鯨が産まれたのかもしれない。 そうして対になった先にあったのは、“ただ在る”と、いうことでした。 それが、目の前に現れた、二頭の白鯨からの応えのように思います。 “ここに在ること”。“存在”はそれがすべてで、 それ以上やそれ以下などの領域はなく、それは、はかることのできないもの、だと。 なにかを成さなければいけないと思っていた。なにかを成すことで、在ることを肯定できる、と。 けれど、なにかを成しても成さなかったとしても、“ここに在る”そのことに、差異などはなく、 不完全であることでさえも、“全体”という完全なものなのだと。 完全ではない、ということが完全だということ。 “孕む”という言葉は、“身籠る・籠る”という意味を持つ。 そして同時に、“産む”という意味をも内包している。 籠ることは、閉ざすことではなく、在るべき位置に戻ること。還ること。 私にとって、深淵へ降りてゆくということは、そういうことだったのかもしれません。 作品を描く前は、対として、閉じてあげたいと思っていた。 けれど、“閉じる”とは、“綴じること”でもあったのかもしれない。 綴じることで、また、開かれる。 孕むことが、産み出すためのものであるように。 そしてその産み出す場所は、 秩序を持たないことを選んだ、混沌そのものだったのかもしれない。 すべての始まりは混沌の中にこそあるとしたら。 混沌や脆さでさせ、私が必要とし、抱えて産まれてきたのかもしれない。 私の中に孕む世界は、還るべき場所は、いつも様々な物語りとなって、私に語りかけている。

© Kasumi Suzuki  All Rights Reserved

 

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