個展の会期も残り、あと4日程となりました。
お越し頂いた皆さま、本当にありがとうございました。
毎回思いますが、搬入を終え、始まってしまうと
本当にあっという間に過ぎていきます。
今回、会場の入り口に、一枚の紙を貼りました。
その文章をここにも載せておきたいなと思いました。
ちょっと長くなってしまいますが。
残り数日となりましたが、お越し頂けますと嬉しいです。
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鈴木果澄個展「世界を孕む」
2024.12.07(土)- 12.22(日)/ ※毎週火曜日休廊
11:00~18:00(最終日は17:00まで)
〒064-0809
札幌市中央区南9条西6丁目1-36
011-562-7762
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八年前、一頭の白鯨を描いた。
いつの頃からか、「この絵を対にしてあげなければならない」と思うようになっていました。
完成させたい、というより、在るべき姿にしてあげたい。
対にすることで、きっと閉じることができ、そうすることで、終わらせられる、と。
多分それは、この白鯨のこともだし、私自身へのことだったのだと思います。
光と影、彼岸と此岸、常世と現世。もしも仮に、この対の白鯨を“光と影”とするなら。
最初に描いた白鯨は、影の中にいるのだろうか。だとしたら、光側にいる白鯨を必要としている。
単純に光と影という言葉では表現できないけれど、最初の頃はそういうことなのだろう、と思っていた。
光側を描かなければ、と。けれど描き進めていくうちに、感じてきたことは、
光のような側に行きたかったからではなく、そうではないものたちの存在を肯定するために、
描きたかったのかもしれない、そう感じるようになった。過去の白鯨が抱えるものたちを、救ってあげたい、と。
この制作に向き合いたいと思いながらも、なかなか向き合えず、何年もの時が経ち、
それとは裏腹に身体は、筆を持つ手は、どんどん動かなくなっていってしまいました。
自分自身でまとわらせていた角や鎧のようなものは、気づけばどうしようもない重さとなっていた。
のしかかるその重さに、もう足を出すこともできない。そのところまできて、ようやく、
諦めて、手放していきました。描くために手放した、というより、手放したから描けた、のだと思います。
それを知るために、あの時、片側だけの白鯨が産まれたのかもしれない。
そうして対になった先にあったのは、“ただ在る”と、いうことでした。
それが、目の前に現れた、二頭の白鯨からの応えのように思います。
“ここに在ること”。“存在”はそれがすべてで、
それ以上やそれ以下などの領域はなく、それは、はかることのできないもの、だと。
なにかを成さなければいけないと思っていた。なにかを成すことで、在ることを肯定できる、と。
けれど、なにかを成しても成さなかったとしても、“ここに在る”そのことに、差異などはなく、
不完全であることでさえも、“全体”という完全なものなのだと。
完全ではない、ということが完全だということ。
“孕む”という言葉は、“身籠る・籠る”という意味を持つ。
そして同時に、“産む”という意味をも内包している。
籠ることは、閉ざすことではなく、在るべき位置に戻ること。還ること。
私にとって、深淵へ降りてゆくということは、そういうことだったのかもしれません。
作品を描く前は、対として、閉じてあげたいと思っていた。
けれど、“閉じる”とは、“綴じること”でもあったのかもしれない。
綴じることで、また、開かれる。
孕むことが、産み出すためのものであるように。
そしてその産み出す場所は、
秩序を持たないことを選んだ、混沌そのものだったのかもしれない。
すべての始まりは混沌の中にこそあるとしたら。
混沌や脆さでさせ、私が必要とし、抱えて産まれてきたのかもしれない。
私の中に孕む世界は、還るべき場所は、いつも様々な物語りとなって、私に語りかけている。
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